2012年4月30日月曜日

犬の怖がるもの。


犬が我が家にやって来た当初、犬には何も怖いものがなかった。

翌年、花火が怖いと言い出した。
前の年には淀川を渡る時に一緒に花火を見たはずなのに。
見上げるくらいのま近で。

次の年、雷も怖いと言い出した。
怖がりようは半端ではなく、
机であろうと本棚であろうと
キミは猫か?と言いたくなるくらいに
高い所に上りたがる。
犬が収まる分以上に、床にはいろんなものが散乱している。
普通はどこかに潜り込むところを
上って見晴らし良くしてどうする?と
首を傾げる。
それ以上に、上ることの方が怖いだろうに。

あれから数年、
突然に花火も雷も怖がらなくなったので
私は真剣に、とうとう耳が遠くなったと
どれだけさみしく思ったことか。

なんのことはない、耳は無事だった。

そして、いよいよ
いよいよ犬は、犬の鳴き声を怖がるようになった。

とりわけ甘えを含んだ高めの声だ。
こういう声の主には大型犬はいない。
小型も小型、どうにかしたら超小型の仔犬だ。
情けないどころか
最早、あほらしいと言える。

ブルブル震え出したかと思えば
しがみついたり、脇や足の間に頭を突っ込んだりで
身動き一つとれないこっちはたまったものじゃない。
もしかして、嫌がらせなのかと何度思ったことか。

しがみつかせも、突っ込ませも阻止すれば
ついには、高い所に上った時と同じ道理か
声の主から遠ざかればいいものを
ブルブルしながら近付いていく。

ブルブルしながら近付かれる相手の方が
何倍も怖いだろうと思うほどにおぞましい顔。

この先、何を怖がるのかと考えたら眠れなくなりそうだ。

その対処法は
今度こそ私が怖いものになりそうで怖い。

2012年4月29日日曜日

犬に学ぶために…。


犬に学ぶという点において
私の場合、それは特に高齢になった犬からが多い。
とりわけ看護や介護といったことが必要となった犬からだ。

それが何故なのかと考えてみると
私自身の側の受け皿の違いなのかもしれない。

若い犬に対し、私は多くを受け取りながらも
一方で多くを送っている。

これして、あれしてという要求の類いのものや
イヤだ、ダメだという拒否の送受信みたいなものだ。

しかし、要介護犬となれば
私からの要求は激減する。
拒否は皆無となる。

犬の一声や動きから
何を伝えようとしているのか、
何がして欲しいのか、
そればかりを考えることになる。

不自由になった目や耳や足の代わりとなり
私ができることは何かを探す日々だ。

そんな中で、それが要求ばかりではなく
愛情に溢れていることにも気付かされる。

私を思いやり、頑張って生きていたのだと
気付かされる最期の何と多いことか。


年齢に関わらず犬が何を言い、
何を望み、それは何故なのかということを考えることが大切なのだ。

若いということだけで安心して拒否することも多く、
見逃し聞き逃していることが多いのだとすれば
それはとても残念なことだ。

私は大きく深い受け皿になろうと思う。


「ディーフ 何か言って?」
「何もないの?」
「一つも?」
「まったく?」
…………………………………

「それはダメよ」

2012年4月28日土曜日

新しい気付き。


私は元々、食事中にポロポロこぼすたちではない。
とは言え、全くこぼさないかと問われれば、
全くこぼさないとは言えないけれど
小学生並みにそこまでムキになって聞かれることもないだろう。

聞かれることはないのだけれど
私自身が小学生並みにムキになって言っておきたいのだ。

私はそんなにこぼすたちではない。

私は今日、一度目は食べ物を
二度目は飲み物をこぼした。

そんなこんなで、私は自分で気付いたのだ。

どちらの場合も
落下物は私の服の右胸辺りの同じような位置に印をつけた。

私って、口の右側の守備があまいってことじゃないかしら…。

2012年4月21日土曜日

Facebook デビュー


昨日のブログがFacebookデビューになるのは
さすがの私も恥ずかしいので、
それなりに相応しく真面目に書くことにします。

以前にも書いたことがあるのですが
私は犬のことを犬と言い、犬と書きます。
私は人間と言われる機会はそうありませんが
私が人間だということと同じように
犬が犬だからです。

ワンちゃんと言わないと疑問視されるような風潮、
雰囲気があることがちょっと残念でもあります。

未来の世界で
私は猿に『ペチャクチャちゃん』と呼ばれたり
分布域上、時に『デンガナマンガナちゃん』などと呼ばれるよりは
『人間』又は『関西人』と呼ばれる方を望みます。

私は私の犬を『私の犬』と言い、
私の犬は私のことを『私の人間』と表現します。
私たちは公平であり、良好です。

(真面目:レベル2くらい より)

2012年4月20日金曜日

ドーナツと私、それには駐車スペース。

ドーナツを買おうと思った。

チャンス!
お店の前にスペースがある。

指示器を出して横に寄ろうとした瞬間
ものすごく悪いタイミングで、
ものすごくイヤなスピードでバイクがやって来て、
ものすごく感じ悪く場所をとられた。

そうきますかって感じ。

怒り+落胆の中
食べない方がよろしいと神か仏が申されたのかもと
諦めかけたものの
これしきのことで、お忙しい神や仏は何も申されぬはず。

申したとすれば、あのバイクの戯言。

車とバイクの駐車スペース取りだから負けはしたが
これが百人一首のカルタだったら
そうはいかない。

どこからの声かわからない位の気合の一声と共に
部屋の隅に飛んで行くスペースが
バイクよ、キミに想像できるか?

ドーナツが食べたい勢いとはこんなもんだ 。

もしやキミはそれ以上だったのか?

2012年4月19日木曜日

むめいばし

道路脇に むめいばし23号橋と書いてあった。

橋?
よく見ると、溝を少し大きくした程度の用水路があって
そこに、なるほど小さな小さな橋がある。

むめいばし という言葉がなんだか寂しくてわびしくて
何度も心の中でつぶやいた。

むめいばし…

むめいばし…。

それならいっそのこと、23号橋だけでよかったんじゃない。

むめいばしという名前のひっそりとしたその橋には
今日から名前がある。
私だけしか知らないけれど。

2012年4月18日水曜日

寒川猫持歌集 「 猫とみれんと 」


お気に入りの一冊です。

ドッキリするような恋の歌もあります。
とっても可笑しいお医者さんネタもありますが
ここはやっぱり、猫の歌を紹介します。

もみじ饅頭一個くわえて走ってるあの縞縞がうちの猫です

尻舐めた舌でわが口舐める猫好意謝するに余りあれども

私は好きですがもっと汚いのもあります。
書きたい…けど書けません。

いや、自分をさらけ出す勇気を持ちたいと思います。
勇気を持って書いてしまいます。

前足を掻く爪音に目覚めたら湯槽の中でうんちしとった

(。-_-。)他者(ヒト)の歌勝手に紹介したあげくお粗末でしたとここは言っとこ



この歌に登場しているニャン吉くん。
20年一緒に暮らし、亡くされた時の歌があります。

あまりにもまっすぐで胸を突き刺された感じでした。

こんな短い歌なのに、私のあの日を
これ以上には表現できないのではないかと思うのです。

心の奥底にしまいこんでる気持ちを
表現してもらったような特別な歌です。


赤い日が仏陀よ海に落ちましたわたしの猫が今死にました

2012年4月17日火曜日

素朴な疑問シリーズ第3弾。


この写真は口にくわえられた末にブンブンの刑に
処せられているオモチャの写真です。
赤と緑の色と化しているのがトマトのぬいぐるみです。

そして一緒に写っているのは執行犬、
トイプードルの女のコ
本日の疑問の主役、アロハです。

注目して頂きたいのがアロハの下半身。
背中から腰にかけてぶれていません。
ここはほぼ動いていません。
後肢はややぶれています。

顔面はこれはひどい。
ひどいブレです。
鼻を中心に高速でくわえたオモチャを振り回しています。
右に180度、左に180度、
猛烈なスピードでブンブンです。
もう顔もオモチャも同化するくらいのブンブン加減です。

これがさっきから続いています。
私はトマト投げ遊びから置き去りにされ
急遽、観客にされました。


ここで疑問が生まれました。

何故、アロハは床に顔をぶつけないのか?
何故、アロハはフラッともヨロッともせず
止まった時にシュッとしていられるのか?

何度繰り返しても一向に減速せずに振り回しています。
やってます。
八の字旋回までやってます。
そして何事もなかったかのようにシュッと終えます。
やってます。

それにしても何故?
アロハはこれのどこが面白くて延々続けているのでしょう??

2012年4月16日月曜日

悲しみを乗り越える為に…

昨夜、食事をしている時に
隣りのテーブルの女性客の声が聞こえた。

「 自分の所の犬が死んで、
すぐ新しい犬を飼う人の気持ちが理解できひんわ。」

前後の話の様子から、
明らかに批判的に響いた。

すぐというのにも色々あるのだろうけど
批判的なもの言いに対する率直な私の気持ちは
小さな声になって飛び出した。

「 幸せな人…。 」

話が聞こえていた主人も私の言葉に頷いた。

あの絶望的な虚無感をうめるものなど
他には無いことが私たちにはわかっている。

勿論、言ってる意味はわかる。
それに確かに、あんたには次の犬は無い
ときついことを言いたくなる人もいるのは
否定できない。

だけど、大勢の人間は亡くしたことで苦しんでいる。

悲しみと絶望にあがいている。

悲しみも自責の念も寂しさも虚無感も
色々な思いが入り乱れ、重なり合う中で模索し
ようやく背負えるくらいになったところで
中には逝ったコに詫びながら
新たなコを迎える決心をする人もいるのだ。

理解できないのは仕方がない。
経験していないのだから当然だと思う分
批判はできないし良くないと思うのだ。

人は様々だ。
様々に生きている。


そして犬もまた、様々に生きている。

誰かの手が差し出されるのを
命がけで待っている犬もいる。

互いの不足を補い合える相手が
もう待っているのかもしれない。

2012年4月11日水曜日

乗ってる?



朝の出勤時の一枚。
定位置の助手席から
後部座席にいる私を確認している犬です。

主人がいる時は運転をお願いします。
当然助手席は犬の場所。
私は黙って後部に座ります。

動き始めると私がちゃんと乗ってるか不安になるのか
『 乗ってる? 』と振り返り
必ず聞いてきます。

やがて、このまま
うつらうつらし始める犬です。

本当は後部座席より助手席の方が
うんと好きな私ですが
「 乗ってるよ 」って応える時の幸せ感が
後部座席にはおまけで付いてくるんです。

2012年4月10日火曜日

犬に寝違いはないのか?の第2弾 目に毛が入っているのに何故平気?

ということで、
私の素朴な疑問シリーズからの第2弾。

眼球に傷がつくと
当然のことながら、涙が多くなる。
目をシバシバするし、
普通には開けられない状態にだってなるし、
閉じたままで辛そうにだってなる。

私は自分自らの睫毛だって
それどころか服の繊維だかなんだか
光に透かして、ようやく存在が確認できる程度のものや
どうにかしたら
どうにもこうにも姿も所在もわからない程の
極限のひ弱なものにだって
完全に涙ポロポロで目は開けない。

なのにキミたちは
自分自身の硬い毛だろうが
例え、それが束になってかかってこようが
それで完全に視界が遮られていようが
全く持ってお構い無しに
ご機嫌でいられるのかが
本当に
本当に謎だ。


『 それしきのこと謎だなんて笑っちゃうね。
傷がついたわけじゃあるまいし
目ん玉に物がのったくらいのことで
ガタガタ騒ぎなさんな みっともない。
ましてや自分の毛とくりゃあ上等じゃねぇか。
こちとら伊達に全身毛に覆われちゃ
いませんぜ 旦那。』

うちの犬の言いそうなこと。

2012年4月7日土曜日

犬に寝違いはないのか?

高齢の犬が同じ姿勢のまま眠っていると
起き上がる時だとか動こうとする時に
その経験あるあると言いたくなるような
ぎこちない動きをよくするが
だからと言って、『 イタタタ 』とは言わない。

若い犬だって
その首の方向はおかしいだろ?とツッコミたくなる姿勢で
寝ていたりするが
やっぱり 『 イタタタ 』とは言わない。

イタタタどころか
何てったってスゴイのが
横向きの姿勢で寝ている時に
宙に頭を浮かせたまんまでいることだ。

眉間にシワ一つ無い涼しい顔して寝ていたりする。

まさに今、その状態のうちの犬。

感心していると、
頭を浮かせたまま私を見て
余裕の大あくびなんかもしてみせちゃったりしています。

調子にのっています。

2012年4月1日日曜日

分離不安による問題行動、あれから一年…。

Moonが私のそばからいなくなって一年が過ぎた。

一年前、私はMoonを母に託した。

亡くなった母はMoonを知らない。
だけど母がMoonを好きになるのも
Moonが母を好きになるのも
私にはわかっていたから
だから全然心配はしなかったし
今も心配はしていない。

問題は私の分離不安だけだと思う。
Moonの入院に伴い発生した問題は
そのまま続行する分離状態に不安は消えずで
大問題へと発展したが
年月と共に諦めるということも同時に学びつつある。
一年経って、ようやくこんな感じだ。

声がかれようが
リードが切れようが
物が壊れようが
どうにかしたら怪我をしようが
何がなんでもそばにいて欲しい、
そばにいたいと思う犬たち。
人が言う《分離不安による問題行動》は
あっても仕方がない。
私はキミたちを肯定する。
少なくとも否定する権限は私には無い。

共に暮らす月日の短さを思えば
問題などそこには無く、
家族冥利に尽きる愛情だと、私は思うのだ。

一年経って、こんな感じだ。