2011年4月28日木曜日

咬み犬

                                                     家の人を咬むというシェルティーがいました。
3歳の男のコでした。
お家にお孫さんができたので、もし咬むようなことがあったらいけないので
どなたかに貰って頂きたいということでした。
簡単に言えば、うちの孫だけが大事だということです。

その犬を空港に迎えに行き車に乗せました。
車内の汚れによる悪臭は
窓を全開にしても数日はとれることがありませんでした。

咬むという行為は、怒りによるものではありませんでした。
どちらかというと、怒りの感情をあまり持つということのないコでした。
食事中に食器を取るとか身体に触るとかで怒ることもありません。

嬉しい時、楽しい時など
少しテンションが上がるという時に前歯でカチッと咬むというような
そんな感じです。

ですから、普通のコで言えば、尻尾を大きく振って飛び跳ねるような
そんな時で、結局感情表現がわからないというような感じでした。

来た時の悪臭や前のお家の方のお話から想像すると
殆ど相手にされず、何もわからなかったのだと思います。

ただお座りと待ては教えられていて
うっかりヨシを言い忘れていたりなんかしたら大変、
いつまでも食べずに待っていたりするようなコだったのです。

こんなコが喜びの表現や愛情表現を知らないでいるとは
こんなバカな話はありません。

触れられることは嫌いではなく、嬉しいのです。

咬み犬という烙印は正しくはありませんでした。

咬む犬を咬み犬と言いますが
咬む犬にしたのは、病気でなければ殆どの場合は人間です。
人間が咬む犬に育てなければ、咬み犬はいません。

咬む犬に咬まれないようにすることは、自分の身を守るということだけではなく
咬み犬にしない為にも大切なことだと思います。


複雑に要因が絡みあっているようなことが多い現在
恐怖、神経質、わがままの中にもいろいろあり、
簡単には判断できないところもあって、
その上、脳自体の問題を抱えるコも以前より多くなっていると聞きます。
本当に難しくなってきているのだと思います。
それも人間社会と共に変化しているのでしょう。
精神的な面も簡単なことではないかもしれませんね。


うちの犬も常に何か考えごとしている顔をしています。
私より数段、難しいことを考えているかもしれません。
例えば、私の将来のことなど・・・。

そりゃぁ いつか1度くらいは咬みたくもなっているでしょう。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

2011年4月27日水曜日

実は・・・

                                                      2日が限界かもしれません。
実は家族にブログの内容について注意されました。
そろそろ、いや、いい加減だったかな、真面目な内容にしなさいと。
それで丁度、お電話頂いたこともあって介護のことと抱っこのことにしたのですが
かと言って大した内容でもなく、3日も真面目は続きません。

また、整体のお話です。
腰痛はほぼ無くなりました。
それと嬉しいことに姿勢がよくなってきたように思います。
胸が広がったというか、肩が開いたというか自然に背中が伸びている感じです。

何より、嬉しいナイショですが、
絶対に脂肪と思える身体のあちこちに付いたおぞましいかたまりを
先生は 「 老廃物 」 とおっしゃいます。
脂肪じゃない?老廃物~?
「 先生、それ脂肪でしょ? 」
「 いや脂肪じゃない、老廃物。 」
すごいきっぱり言われます。
「 本当に脂肪じゃなくて老廃物ですか? 」
「 そう脂肪じゃない、老廃物。 」
「 脂肪じゃないのかぁ~ 」
「 そう脂肪じゃない。 」

ねっ。
何回だって聞きたくなるでしょ?

勿論真面目に自分の身体のケアとして毎週行くことにしたんですけど。 

                                                                                                                              

2011年4月26日火曜日

老犬の抱っこ

                                                     昨日に引き続き老犬のことです。

基本的に若い頃と同じような抱き方ですが、注意する点が加わります。
無茶に手を持って抱き上げる方はそうはない( でもたまにいらっしゃいますね )
と思いますが、
筋肉が落ちていっているコがいますので
( ダイエットが必要な位に太っているよいうに見えて
実は脂肪はついているが、筋肉は落ちているコは多いです。
太もも部分がタルンとなってきたり、背骨だけ出てるようなコもそうです。 )
ダックスのように椎間板ヘルニアの多い犬種だけではなく
老犬になれば、極力身体は平行に抱っこして
どこか1ヶ所に負担がいくような抱っこの仕方をされないように、
歪まないように注意された方が良いと思います。
小型犬種であれば、自分の片腕を胸の所で曲げたその形の上に
胸からお腹が乗るようにして、もう片方の腕で全体を支えるような感じです。
そうすれば、背骨が歪むことなく真っ直ぐな状態で抱っこができます。
元気で抱っこ抱っことくれば、そのまま抱っこしてしまいがちですが
背骨を悪くしないようにと思いながら平行に抱っこを心がけています。

そして、もう一つ大切なことは
腕全体に身体をのせるように抱っこすることで
胸かお腹かどちらか一方に多く体重がかかることを防ぐということです。
胸を圧迫するような抱き方では、息苦しくなってしまい
ひどいコではチアノーゼのように舌の色が紫になってしまう場合があります。
シーズーやパグ、フレンチのようなマズルの短い、
所謂、短吻種では若い時でも注意が必要だったりしますが
老犬の場合も注意が必要です。
心臓や気管が弱っているようなコも多くありますので
胸だけでなく、喉の部分も少しの刺激で咳を誘発してしまうことがあり
これも苦しくなってしまうので注意が必要だと思います。
かなり呼吸が苦しくなっているコの場合は抱くこと自体も大変な注意が
必要になってきます。

呼吸の状態だけでなく、心臓の状態や貧血などの変化にも気付くことがあるので
舌を出している時には舌の色を見ることを習慣にされてもいいかもしれません。


老犬の眼差しはこれ以上ないと思うほどの優しさに満ちています。
確かに子犬もかわいいのですが、私は老犬が大好きです。
そして、どのコも何かしらかけがえのない大切なことを
教えてくれると感じています。
みんな本当に長生きして欲しいものです。
                                                                                                                              

2011年4月24日日曜日

介護するということ

                                                      お客さまからよく相談されることに介護がある。

介護とはどういうものかは、ある程度想像はされている。
恐らく身近に無い場合でも、テレビや雑誌などから
人の場合を照らし合わせて大体はこういうものだと理解されているのでは
ないだろうか。

私は経験だけは多くしてきたと言える。
その中ではっきり言えることは、介護とひとくくりでは言えないということだ。

ひとくくりでは言えないというのは、みんなそれぞれ介護に至るまでの
経過が違うからだ。
老犬もそうだが、同じ病気であっても症状が違ったり、経過が千差万別だからだ。
どうすればそのコがラクでいられるかは同じコでもころころ変わる場合もある。

一番わかりやすい例でいうと
床ずれ予防の為にも、時々は身体の向きを変えましょうとよく本にも書いてある。
でも、変えることが難しい場合がある。
どちらか一方を下にした場合、呼吸がしずらくなるということがそう珍しくないからだ。
勿論明らかに違っていれば誰でも気付くことができると思うが
ほんのわずかな呼吸の違いの場合も多く
結局は見ること ( この場合は看るではなく観察に近い意味 )が
とても大切に思っている。

少しでも痛くないよう苦しくないようにする為には
変化や様子を細かく見て、治療につなげていって貰うことが大切だと思う。

結局はそこから工夫も生まれてくるし
その工夫によってまた病状も安定していくことがある。
病気、高齢どちらにも同じことが言えると思う。

経験した数が多いと、工夫したものが少しあるということだけで
結局はお家の人にかなうわけがない。
一番に愛情で結ばれていて、一番に理解できる人がそばで看ていれば
本当にあとは、その時に必要かもしれないほんの少しの工夫だと思う。


決して介護の期間は苦労ではない。
睡眠不足や力仕事など、他にも大変だと思うことがその時にあっても
結局は振り返ると思うことはいつも同じだ。
それは、そのコがくれたかけがえのない大切な時間であるということだ。
わたしの為に時間をくれたことをいつも感謝する。
そしてその時間が今の、これからの私の大切な宝だと言える。
わたしにとって、恐らくは多くの人にとって介護とはそういうものだと思っている。

                                                                                                                                                                                                                       

2011年4月23日土曜日

雰囲気って・・・どうよ?

                                                      母親譲りの明るい髪のお陰で、ヘアカラーには縁遠くいたのだが、
ここに至ってそうも言っておれない諸事情も出てきた。
といっても、美容室に行くのがことのほか苦手だ。

私個人にとっては、必要以上の明るい照明の下、
必要以上の大きな鏡の前で、
もしや拡大鏡かと思える位に映し出された私の顔が、
てるてる坊主みたいに布から出ている様が我ながら耐え難いのだ。
現実は容赦ない。
時間がかかるとなるとなおのこと、罰ゲームであっても厳しすぎる。
それで思い切って自分ですることにして既に何度かになる。

そして今日、買い物のついでにヘアカラーの棚をのぞいた。
いろんな会社のいろんな種類のいろんな色がずらっと並んでいた。
いつものにしようか、変えてみようかどうしようかと悩んだ末
結局は止めて帰ることにした。
止めて帰る気分になったのは本当に気分的な問題だ。

会社も種類も色にも関係無く 箱には   おしゃれな〇〇色 と書いてある。 
書いてあるのが普通なので気にもかけなかったが
その中では高級と思われるお値段のものに、こう書いてあった。
おしゃれな雰囲気の〇〇
?????
おしゃれなような雰囲気ってこと?
結局は本当はおしゃれではない、ということではないのだろうか?

おしゃれとおしゃれな雰囲気なら、おしゃれと言い切られる方が
いいのではないか?
いや、おしゃれというものは断定する位なら鼻につくのと紙一重かもしれない。
雰囲気があるほうが、好ましいのではないか?
いや、この場合は、おしゃれそうでいて、違うという感じがするではないか。
そもそも、全部の色におしゃれの文字がついている。
今更、おしゃれって・・・・・。

どうやら気分的な問題で帰ったのではなくて
振り返ると、結局自分に愛想付いたってことらしいなどうも。                                                                                                                                                                                

2011年4月20日水曜日

自分のスイッチ

                                                     人はよくスイッチが入るなどの表現をする。
勿論遊びモードのスイッチの場合もあるが
上手に自分を切り替える時に仕事モードのスイッチで使うことが多いと思う。

昨夜も仕事の話をしていて、このスイッチの話になった。

そろそろ職場のエリアに入るという横断歩道の前でスイッチが1つ入り、
職場の入り口でもう1つ入る。
タイムカードで最後の1つが入るという従妹と話をしていた。
3つもスイッチがあるということで無条件に尊敬すらしたものの
たった今考えると、3つ入れて初めて仕事に臨めるというのは考えものだ。

3つで尊敬したのには訳がある。
言われて考えてみると、私のスイッチがどこにも見当たらず、
入れたり切ったりした感触がないからだ。
では、入れ時はどこにあるのだ?
家を出る時か?
車が到着した時か?
ドアを入る時か?
これと言って、そういえばあそこでなんてのが  ない。

こんなことで私のは紛失したのか、そもそも存在していないかだったので
3つもは尊敬するになってしまったのだ。

スイッチがないと言った時に
いつもスイッチが入ったままだから、そう思うんじゃないの?
なんて、フォローのかたまりみたいになってくれたけど
それに乗っかって許される私だとも思えなかった。


昨夜の話はこんな感じで終わったのだけど
今朝、限りなく正解に近付いた。

朝、目覚ましが鳴る。
5分のスヌーズモード。
起きないと ・ もう少し ・ もう起きないと ・ いやもう少し ・・・
この時点で目覚ましのスイッチ同様
私のスイッチもONとOFFが繰り返されているのだと思う。

朝、起きるということ、これが私の唯一、最強のスイッチON だ。

仕事のスイッチ、やる気のスイッチはどうなんだと言われると
ONもOFFもスイッチさえも無縁のところで仕事としている。
もしスイッチがあったとしてら、それは私の手にあるのではなく
犬の手にあるのかもしれない。
なんて言ったらカッコ付け過ぎみたいだけど本当だ。
確かにいつもONではあるけれど、それは怠りなく注意している状態でいるだけで
スイッチONで楽しみ、OFFで癒されている状態だと言えると思う。

そして、夜。
眠る・・・OFF。
(犬が起こす)ONやめてよっ!
(犬が寝る)・・・・・
OFFONもうやめてって!

朝起きるというスイッチも私が自分でONにしているのかも大いに疑問になった。

そして、答えが出た。
   
       私はスイッチを持たない! 持てない!! 持たされない!!!                                                                                                                                  

2011年4月19日火曜日

私は船長。

                                                      お店の近所の男の子に私は船長と呼ばれている。

私の人生で船長と呼ばれることなんて絶対に無かったはずだ。
船長ごっこだってしたことはない。
だからと言って、「 実はおばちゃん、船長さんなんよ。だから、そう呼んでね。 」
なんて頼み込んだりしていないけれど
船上で舵を取る船長姿の自分を想像してしまうアホな私は
船長と呼ばれるのがとても楽しい。

でも、残念なことに、それも長くてあと2ヶ月位のことだと思う。
                                                      成長は早いものだ。

幼児特有の舌足らずや苦手な発音が無くなれば、
私はもう二度とせんちょうとは呼ばれず、
当たり前に普通にてんちょう(店長)と呼ばれるようになるだろう。


せんちょうと呼ばれる楽しさは、
舌足らずのボクの可愛いプレゼントだと思っている。


                                                              

2011年4月18日月曜日

整体

                                                     お客様に整体の先生を紹介して頂き、一昨日行って来た。

地球温暖化が原因なのか日本の経済か政治そのものが原因なのか
影響をもろに受け体重が増加した私は、
最近重力さえ感じるようになっていたので、
整体により数年ぶりに身体を軽く感じることができた。
ちょっとした勘違いをしそうだ。

診察待ちのおばさんの患者さんに、
一緒に行った私の従妹は 『 元気そう 』 と言われ複雑な心境でいたようだが、
私に至っては 『 体力ありそう 』 と言われた。
女としてはどうだろう。
複雑過ぎる心境だった。

一晩経って、良いのだか悪いのだか、
はたまた全く無関係かもしれないが、やたらお腹が空く。
お昼にコンビニに行ったら、
自分だけの分の買い物なのに 「 お箸何膳ですか 」 と聞かれた。
勿論私一人の分なんだけど、
言われて初めて量の多さに気付き、うろたえた。
内心うろたえながらも 「 二膳下さい。」 ときっぱり言った。

何故、嘘もつかず、環境問題も考慮しつつ
「 要りません 」と言えなかったのだろう。

反省すべき点が私には多過ぎる。 


                                                                                                                              

2011年4月16日土曜日

自意識過剰? そう過剰。

                                                     省エネの為か止まっているエスカレーターに、
いざ乗ろう ( 乗るっていうのか? ) として、
上りと下りを間違って、センサーに引っかかった。
普段より動き出すのが速くない?と思うスピードで
エスカレーターはゴォーッという音と共に動き出す。
センサーはかなり手前にあるので
片足を乗せようとまでは全然いってない。
私だって見たらわかる。
だから、あっ違ったと素早く足はもう一方に向かっているのに、
それでも取り逃がすまいとしているように
大きな警告音が一定の間隔で鳴り響き出す。
『 ビィーッ ビィーッ ビィーッ・・・・・・・ 』
正しい方のエレベーターで私はもう半分は行ってるというのに、
『 この人ですよーっ  間違って動かしたんですよーっ  』 みたいに。
それを裏付けるように
間違った方のエスカレーターもしつこく動いている。
省エネのエスカレーターをこうまで動かした罪悪感と
恥ずかしと恨めしさでいっぱいになった。

それから中華料理店に入った。
お客の年齢層が高いからか普段でも静かな店内は
時間が遅いこともあって一層静かだった。
警告音の残響も消え、落ち着きも戻るこの静けさは有り難かった。
注文に食べたくなった春巻を加えた。
で、食べた。
子供がプレゼントの包装紙を思い切りバリバリッと破るように、
口の中でバリバリバリッと大きな音がした。
世界中の食べ物の中で一番大きな音がした。 多分。
『 私、春巻食べてますぅーっ! 』 って店中に知らせてるようなものだ。
早く食べきろうと早く噛んでも
音を立てないようにしたくてゆっくり噛んでも
その気持ちを見透かされる位、きっちり音が教えている。
バリバリッて音よりも、かえって噛み方を変えている私が恥ずかしい。
もうこうなったらと噛む回数を減らして飲み込んだら
春巻なんかを喉に引っかけてしまった。
何回もお水を飲んでみたところで
なかなかクタッとはならないバリッバリの春巻は喉に痛かった。

あ~あ。
私が自意識過剰でさえ無かったら
こんな出来事は小石につまずいた程度のことだ。
でも私が自意識過剰だからこそ、こんな文章にまでなって
このブログはあるのだけれど。


                                                                 

2011年4月15日金曜日

ほらね。

                                                      私よりかなり早くに就寝になる犬は
私が熟睡モードに入ってから再び僅かながらも活動が始まる。
と言っても、人目を忍んでハタを織るわけはなく
一家の食を担って狩りをするわけもない。
本人としては、何か思うところもあるのだろうけど、
大した理由ではないのだと思う。

活動の最終段階に入ると、決まってお水を飲む。
必ず飲むと決まっている。
お水を省略することは絶対にできない。
飲み方も普段とはあきらかに変えている。
普段なら食器の縁に鼻をひっかけて静かに飲むのだが
夜中に飲む時は食器に鼻を突っ込んでバシャバシャと飲む。
飲むというより、要するにお水を極力滴らせたいのだと思う。
そうすればいよいよ最後の仕上げとなる。
ここのところで、今度は私無くしてフィナーレは無い。
私が大切な要素となっている。

普段はいたってテンション低めでいるくせに
この時の為に温存しているのだ。
口元の毛にお水を吸収し終えた犬は、
テンションギアをトップに入れる。

お水を滴らせ、水しぶきまで浴びせる勢いで顔を急接近させ、
私が大騒ぎして飛び起きたら、これで全てが終了する。

犬は線香花火が最後にポタッと落ちたみたいに静かになって
鼻息1つ残し、寝ることにする。

ほらね。
大した意味はない。


                                                               

2011年4月12日火曜日

なんで?

                                                      朝、目が覚めました。
朝の支度やら何やら小一時間ほど後、
朝のうちに電話をしないといけない用事を思い出し
電話しました。

思い返せば、うちの犬も猫も就寝中であったため
話かけたりすることもなく
歌うこともなく
声出しの独り言すらせず
実に静かに
黙々と
ただ黙々と動いていたのがいけなかったのです。

そもそも 「 もしもし 」 から、
もういけなかったのです。
痛くもなんともなかった私のノドに何があったのでしょう。

刑事ドラマなんかで
場末のバーのママが、朝早くに聞き込みされた時に
これ以上の面倒はないという風に
「 何時よぉもう そんな人知らないわよぉ 」 と
お酒とたばこに焼けた声で言う
まさに、その声になっていたのです。

またです。
またしても寝る時は普通の聞き慣れた私の声が
お酒にもたばこにも縁遠い私の声が
カーラーしたままぁの、首筋掻きながらぁの
ママ役ぴったりの声になっていたのです。

2度目ともなると大して慌てもせず
今回はすぐに元に戻ったので
結局は、誰かを驚かすこともないまま
一人小芝居向きで終わりました。

犬も猫も声一つ無く、寝返りすらなく、
ずっとかたくなに眠ったままだったのは
ひょっとしたら聞いてはいけないものを聞いたとか
見なかったことにしようとか
見猿聞か猿言わ猿 だったのか
ひたすら爆睡状態にならざる負えない夜だったのかは
もうすでに考えない私には
ゆとりともいうべき遊び心すらでてきていたのです。

                                                                                                                                             

2011年4月11日月曜日

                                                     桜の季節になると阪神の震災を思い出します。
地震の後、神戸を目指していた私達の横を何十台というパトカーが
1列に途絶えること無く、同じく神戸方面を目指して行きました。
パトカーのナンバープレートは兵庫や大阪のものではなく
あらゆる全国からのものでした。
本当に全都道府県が並んでいたと言っても言い過ぎではないくらいで
遠路からのものが、ただずっとずっと静かに並んで走って行きました。
映像だけではなく自分の目で直接見ていたにもかかわらず
その光景は大変なことが起きてしまったという気持ちを
より一層強くし、胸が痛いほどでした。
そこにラジオから流れてきたのがユーミンの 「 春よ、来い 」 でした。
私は涙が溢れていました。

この曲を聴くと、あの日の光景が甦ります。
曲を聴きながら、桜が心に浮かんでいたことを記憶していて、
あの日から、桜を見てもあの時に戻ります。

あれから毎年、同じ思いで桜を見ながらも
ほんの少しずつ微妙に明るさが加わってきた気持ちに
今年はまた、震災に遭われた方々を想うことで
桜は私の中でまた変化しそうです。

桜がこんなに綺麗で悲しいものだと感じながら
こんなにつくずく眺めたのは、今年が初めてかもしれません。


                                                                                                                                

2011年4月10日日曜日

星守る犬



                                                                                                               1年半ほど前にこの本を知って、本屋さんで
 取り寄せて貰いました。
 何とも心に残るストーリーです。
 これが映画になるそうで、今年の6月に
 公開されます。
 お父さん役は西田敏行さんだそうで、
 内容は知っているけど、
 泣くことは避けられそうにないし
 観たいし、泣くしで、
 今からどうしようか悩んでいます。
  
 あとがきに 
   傍らに犬。
   二人は絶対に幸せだったと思います。
                              とあります。


 傍らには犬・・・まさに 店名の Dog  beside...  です。
    beside dog  にしなかったのは、犬を主語にしたかったのと
    beside の後の ・・・ を自由に想像して貰うことで
    犬自身がそれぞれに安らげる好きな場所に
    そして自由にいて欲しいという思いでつけました。
                   
       
    わたしの場合は、犬の傍らにはやっぱりわたしなんですけど。
    ( すでに自由なんて夢のまた夢だと犬は嘆きますね )
          
                                                         

2011年4月9日土曜日

右側で目覚めたときは・・・

                                                 

目覚めたときの自分に、悲しくなる時があった。

もうお布団だって枕だって私一人だけのもので

ど真ん中で大の字にだって眠れるのだし、

一晩中、ごろごろ寝返りうったとしても平気だ。

そんな風に、好きな時に好きなように好きな恰好で眠ることができるのだ。

なのに、お布団の左側と枕の左側を使わずに

右側の半分で眠っている。

右側だけのお布団の上で

右側だけの枕の上で。

右側だけの上で平仮名の し みたいに足をよけている時だってある。

目覚めた時の自分の恰好で

涙が出る時があった。

Moon はいないのだ。


「 Moon ちゃんはいないのに・・・ 」 と言ったら、
 
「 雨降ってる 」 とか 「 お腹空いた 」 とか言うみたいに

「 朝までいたんやろ 」 って言われた。


      「 これからもずっと一緒 大丈夫 」 って言ったのはわたし。



                       右側で眠っているわたし
             
             左側の Moon

                                                                                                                                                                                                      

2011年4月7日木曜日

また、 起きたら・・・

                                                      ぎっくり腰になってしまった。
もう既に4、5回目になる。
この1週間、危ういところすれすれでピンチを脱してきていたのに、
朝、起きれなくなっていた。
起きようとするまでは眠っていたのだから
いつ、どの時点でここまでになったものだかわからない。
もうごまかしの効かない限界というところまでになっていたのだろう。
この痛みより睡眠が勝っていたとは思いたくはない。

思いたくはないけれどだ。
痛みで起きて当然ではないか。
なのに目覚ましで起きたのだ。
思い返せば、以前にも書いたけれど
起きたらこうなっていたということが私には多すぎる。


一体どういうことか理由が知りたい。




いや、ここは敢えて知らないでおこう。

                                                             

2011年4月6日水曜日

子供の教育とは?

                                                     カバチというお友達のいる男の子。
先日お家の前で出会った。
私がカバチのことを興味津々聞くのが嬉しいらしく
「 また、お話してあげないといけないね 」 と言っていたらしい。
それを聞いたものだから
「 また、カバチのお話をきかせてね バイバイ 」 と言ってお店に向かおうとした。

その時、男の子は手をピストルの形にしてもう一方の手で支え
確かに手の先は私に向けられていたように思う。

既に何歩か遠ざかっていた私は
背後でお家の人の大きな声を聞いた。

「 撃ったらあかんっ!! 」

多分、私は撃たれたのだろうと思う。
お決まりのリアクションをするか迷ったけれど
するには少し離れすぎていて
そこだけ人に見られてしまい、ちょっとした近所の有名人になる
可能性があるので止めておいた。

「 撃ったらあかん 」 と守られたことがおかしくて、
数日は思い出す度に笑いがこみあげてきた。


だけど、よく考えると
それも教育なのかもしれない。

だとすると、撃たれたリアクションはしなくて正解だったのだろう。

そして、だとすると、

「 もうカバチの話なんか聞いてあげへんからっ! 」 って半分泣きながら
怒るべきだったのだろう。


                                                             

2011年4月5日火曜日

温かなニュース

                                                     以前にご紹介させて頂いた仙台の dogwood さんですが
昨日の時点で124頭の犬と20頭の猫を保護されたようです。
家人のいなくなった倒壊したお家から、離れたがらない犬も
食事を与えながら、無理に連れて行くことなく翌日にまた行かれるとのことで、
丁寧に、そして確実に救援されています。
集まったみんなが一安心している様子で、綺麗で健康的です。
良い環境にしようと大変な努力をされているのだろうと思います。
頭が下がります。
本当に有難うございます。

漂流していたコもお家の人と再会でき
本当に良かったです。
( 神様はそれくらいのことをするのは当たり前です。 )

津波にさらわれた牛たちもみんなでは無かったけれど、
自力で戻ったというニュースもあって、今日は心が少し温かくなりました。

勿論、まだまだこれからだし、
震災だけではなく、放射能という目に見えない脅威の中で避難されている方々や、
そしてお家に残された動物たちや彷徨っているコたちがいること。
いろいろな規制の中のままならない状況でお気持ちは如何ばかりかと、
そして私は・・・と考えずにはおれません。


でもほんの少しにせよ、動物たちのニュースが流れることで
そこから生まれる人の感情が
今後の動物たちの生活に、ほんの少しでも良い方向に影響するだろうし、
必ずそうあって欲しいと心から願います。

犬や猫や動物が人間の生きる支えになるってことを
今更恥ずかしい言葉ですが、まぎれもなく 家族 だってことを
理解できない人も、理解はしなくても、認めて欲しいと思うのです。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            

2011年4月3日日曜日

神様は・・・

                                                      うちの犬もそうだったけれど、お客さまのわんちゃんでも
悪性の〇〇とか悪性がつく病に侵されることが多すぎる。
それも、まれだとか、あまりないケースだったりとかするけれど
じゃあ何で、ひどすぎるんじゃないかと思う。
いい加減にしろと思う。
大体、動物にこんな辛い病気があること自体が許せない。
何の意味があって、こんな病気があるのだろう。
なんの罪もない者に、あまりにひどすぎる。
元々寿命自体が短いのに、その上こんな病気まで必要のないことだ。
食の問題として取り沙汰されることが多いのは確かで
突き詰めるとそういう問題もあるのかもしれないが
そんなこと動物には関係ない。
人間の範疇でのことにしてほしい。


大好きなわんちゃんの訃報が届く度に、悲しさと同時に
私はどこにぶつけたらいいのかわからない
この理不尽に対し怒りが湧いてくる。
どこにかわからないので神様にだって罵っている。
本当に辛い思いをさせないでやって欲しい。
もういい加減、止めて欲しい。


そして1つ、
津波のせいで、ずっと漂流していた犬が救助されましたね。
長い間、本当によく頑張りました。
これまでの恐怖を思うと、このコがこの先の人生で
天寿を全うするまで穏やかに過ごせることを
家族の元に帰れることを願うばかりです。

神様はそれくらいのことをして当然じゃないですか?