2011年1月29日土曜日
Moon Moon Moon
長い間、ブログをお休みさせて頂きました。
仕事も始めました。
大切な 私の大事 Moon が 逝ってしまいました。
そして・・・私は、日常の時の流れに自分自身をおきに戻りました。
私の中心が、半透明になってしまって
私の身体はその輪郭しか持ちません。
今はそんな感じです。
昔、
ほんとに昔々のことです。
犬は最期の時を迎えようとしていました。
意識のない状態は、時々からほとんどというくらい悪くなっていました。
老犬になってからずっと悪かったはずの心臓が
不思議なくらいに正確な動きを続ける一方で
脳の方が支障をきたし、時々呼吸を止めようとするのです。
私の寝ずの番は、呼吸が止まろうとした途端、刺激を与えて呼吸を促す、
それでもだめな時には口を塞ぎ、鼻から息を入れる所謂人口呼吸を1度する
そのようなものでした。
それが果たして良いことなのか?
余計に苦しみを長らえているのではないか?
私には確信できる答えはありませんでした。
だけど、目の前に起ころうとしている死に
ただ無条件に身体が動いてしまうのです。
だって心臓は動いているのです。
こうしている間にも奇跡は起きるかもしれない・・・そしたら・・・。
そんな日々を送っていました。
意識が無くなったまま戻ることがなくなったある日、
診察の帰り際に 「 後悔のないようにね。 」 と 1人の先生が言われました。
「 はい、有難うございます。 」 と 私は返事をしました。
その日の深夜のことです。
はっきり言えるのは、疲れきっていたのもありますがその時その瞬間には
私の頭には、何1つ思いや考えなど無かったことです。
だからその時、自分の声が耳に届いた時には自分自身でも驚いたくらいで、
自分が言葉として口から出したことがすぐに理解できないほどでした。
私の声は言いました。
「 後悔しないなんて絶対に無理。そんなことは有り得ない。 」
それから私は思いました。
どんなにしたって、どんなにしなくったって後悔は絶対にする。
後悔しないなんて絶対に不可能なことだって。
後悔はする。
だけどその時に考え抜き、最良だと信じて決めたことだと忘れないでおこう。
あの時こうすれば、ああすれば、あんなことしなければは
日常の生活の中には頻繁にあって、
普段なら当たり前のように埋もれてしまうようなことで
それは一緒に暮らしている家族だから余計に起こり得ることで
だけど家族だからこそ、他愛もないこととして許してしてしまう。
日々はそんなことの連続なのではないでしょうか。
でも、怪我や病気に直面すると、結びつけてまでも全てを後悔の対象にします。
私は私の声を耳にした時から
1つ1つの細かい後悔を止めました。
思い悩んだ末に出した答えにも、
自分がその時、最良だと思って決断したのだと
思い通すことの強さを持てた気がします。
でも、これは半分は嘘です。
100%正しいとしても、間違いは0%だと確信できない心は後悔に走ります。
何度も何度も、いやというほどに別れを経験してきた私が
私自身を後悔の中から助け出す為に上手くなった誤魔化し方だと
自分の心との折り合いのつけ方だと認めます。
でもまた残りの半分に、そこに真実があることもわかっているつもりでいます。
失ったコの不在自体、
失ったコへの思いと共に、それはそのまま心に傷となります。
心からダラダラと流れる血が
どうか少しは止まりますようにと両の手の平で抑え込みうずくまります。
何日か何ヶ月か何年かして
手の隙間から心の傷をそっとのぞいてみると
そこにはかさぶたができていて
少しは大丈夫かと思って僅かに手を離してみると
まだ時は早過ぎて、かさぶたははがれ、そこからまた新な血が滲み出し
また手を当ててうずくまらなくてはなりません。
そんなことを何回も何回も重ねていくうちに
かさぶたからはいつしか出血しなくなり、
それがやがて傷跡になるまで、亡きコを想い私の心は痛むのです。
今までもこうして耐えてきました。
そしてまたこうして耐えていくしか無いのだと思っていました。
これが今までの私の全てです。
そして新しく気付いたことがあります。
大切なことでした。
Moon に 思います。
私がどれほどあのコを大切に思っているか
どんなにあのコが愛しいか
それをあのコにきちんと伝えられ
あのコがそれを知ってくれていること。
それが一番大切なことです。
まだ足りませんでした。
だから私、これからもそれを毎日伝えていくことにしたんです。
しつこいくらい言って、丁度いいくらい
あのコも聞きたいんじゃないかって、思うんです。
心に傷はありますが
あのコは不在ではありません。
抑え込んだ心に、手の中にあのコがいます。
あのコごと抑え込んでいます。
今の私です。
どうしてこのようなことをブログに書いたのか説明させてください。
昨年から今年にかけ訃報が相次ぎました。
何度も別れを経験している私が
経験の殆どない人の何の手助けもできずに
言葉を失ってしまうことに
少しはしっかりしろと自分で思っていたからです。
今までもいろいろな本を読んだり、自分の経験を思い返してみたりして
僅かでも力になれたらといつも思いながら
現実は情けない私です。
同じ思いの中で
正直に私を書くことが私にできることのような気がしました。
勘違いしていたらすみません。
また元のブログに戻ります。
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突然の書き込みで、すみません。
返信削除(以前のブログにも、後追いで書き込んではいますが)
私も、昨年2月に、パートナーを亡くしました。
名前はモモ(シーズー)。
12歳になるところでした。
私にとっては、特別な犬でした。
「心に傷はありますが
あのコは不在ではありません。
抑え込んだ心に、手の中にあのコがいます。
あのコごと抑え込んでいます。
今の私です。」・・
と書いておられますが、
私も同じです。
心の中に風船が二つ大きく膨らんでいたのですが、
その一つがふいに、無くなってしまって、
言いようの無い、不安定感、さみしさ、
悲しさ、頼りなさ・・複雑な気持ちです。
ただ、私は
モモに対して、
感謝の気持ちの方が大きいです。
家の中では、モモがいないことが、
日常になりつつあるので、
ある意味安定していられるのですが、
ふいにサッシに爪あとを見つけたり、
数度歩いた散歩コースに踏み込んだりすると、
瞬時にあの時に戻ってしまいます。
モモに教えられたこと、
救われたこと、
掛け値なしの愛情をもらったこと、
数え切れないほどの奇跡。
お話したいことは
山ほどありますが、
これから出かけるところですので、
また、次の機会にさせてくださいね。
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